SSブログ

古市古墳群を歩く(その1) [百舌鳥・古市古墳群]

4月7日土曜日。
藤井寺市の観光ボランティアが主催する、古墳巡りのウォーキング会があると聞き、妻と二人で参加してきました。一度に披露するとかなり長くなってしまいますので、3回に分けて紹介したいと思います。
3.チラシ(上).JPG
4.チラシ(下).JPG  


当日は朝9~10時の間に受付とのことで、「間に合うたらエエわ」とのんびりと家を出た私たちは9:30過ぎに集合場所である道明寺天満宮の境内に到着。ちょうどすぐ前で先着順で貰えていたタオルがなくなってしまい、ちょっと残念な思いをしました(ーー)。
5.道明寺天満宮へ.jpg
6.集合場所.jpg

200円/人の参加料を支払って受付を終え、約15人ほどで設定された班単位で、10時前に集合場所兼最初の案内地である道明寺天満宮の案内から古墳巡りはスタートしました。

この日の天候は前日までと打って変わって非常に肌寒く、暑さ対策を施した服装で参加した私には結構堪えました。ジャージではなくGパンならもっとマシだったし、上に羽織る服もジャケット状のものにしておくべきでした。薄手のダウンを着て参加している人もいたくらいですから、私の服装は完全に選択ミスでしたね(TT)。結局、常に寒さと戦うような1日になってしまいました。

ここで百舌鳥・古市古墳群について簡単に説明します。
皆さん、世界で最も大きなお墓って、①誰のもので ②どこにあるかご存知でしょうか?

・・・・・・

ご存知の方も多いと思いますが、答えは
①仁徳天皇
②大阪府堺市
です。

そのお墓、仁徳天皇陵は百舌鳥古墳群の中核をなし、その仁徳天皇陵から東へ約10km行ったところにあるのが、今回紹介する古市古墳群です。そして私は、この古市古墳群を含めた南河内で生まれ育ちました。今もその南河内に住んでいます。
古市古墳群には、築造に必要な土量が日本一を誇る応神天皇陵古墳をはじめ、多くの古墳が残っています。少なくとも130基の古墳が6世紀中ごろまでに作られたそうですが、現在ではその多くが、「保全」という認識が形成されるまでのいわゆる高度経済成長時代に潰されて道路や住宅になりました。(その証拠となる古墳があとで出てきます)

大阪府の中の百舌鳥・古市古墳群と、それぞれの古墳群の大まかな位置関係。
ちなみに、百舌鳥古墳群の中の、「三国ヶ丘」とある駅の西側にあるのが世界最大の墳墓、前述の仁徳天皇陵です。
1.大阪府の中の百舌鳥・古市古墳群.JPG
2.百舌鳥と古市の位置関係.JPG

さて古墳巡りです。
ちなみにこの行事は、平成31年度の世界遺産登録を目標としている「百舌鳥・古市古墳群」の中の、藤井寺地域の古墳を中心に、観桜とともに歩き巡ることを目的とするものです。すべての古墳を廻るのではなく、徒歩コース内の選ばれた古墳巡りといった位置付け。

スタートは前述の道明寺天満宮。学問の神様でもある菅原道真を祀るこの社は、南河内地域に住む学生、受験生の多くが訪れるところ。春は梅の名所でもあります。

[右斜め下] これは「落ちない梅の木」とのことで、その名も常成梅。多くの合格祈願のおみくじが括り付けられています。「落ちない」梅の実の生る木ですからね。
7.落ちない実の梅の木.jpg
8.これがその木.jpg

ね、実が生っているのがわかるでしょ(ピントは1個にしか合っていませんが・・・・)。
9.その実.jpg

こちらは「修羅(しゅら)」のレプリカ。「修羅」とは、大きな石(石垣の石など)や大木などを運搬する道具のことで、そりの一種。築城の様子などを描いた絵にはまず間違いなくこの修羅を見ることができますね。
10.修羅のレプリカ.jpg

出土した「修羅」の案内板。出土した昭和53年4月というのは、私が高校生になったばかりの時期です。大きな見出しとともに新聞にでかでかと掲載されていたのが、何となく記憶に残っています。
11.修羅の案内.jpg

さて次は道明寺~菅原道真の叔母が住職で、はるか彼方の太宰府に落ちる際に立ち寄ったお寺です。今は散ってしまっていますが、枝垂れ桜の花がとても美しいとのこと。12.道明寺.jpg
13.道明寺縁起.jpg

山門の上には鐘撞きがある、とても珍しい構造。14.山門を裏から見ると….jpg
15.鐘撞きの木がある珍しい構造.jpg

境内に残る桜[かわいい]16花が咲き残る.jpg

花は散っていますが、この椿の木はボランティアのガイドさんお薦め。
この椿の木の葉の先端が金魚の尻尾の形をしており、そのため「金魚椿」と呼んでいるのだそうです。17.椿の木ですが.jpg
18.先端が金魚の尾のよう.jpg

土師ノ里駅前。
「土師」は“はじ”と読みます。古墳時代は、その設計の第一人者として名高い一族。現代では“はぜ”という苗字で残っています。また堺には土師町という地名もあります。
駅名はそのものずばりで、この域内に「土師」という苗字を持つ人々が住んでいたのでしょう。だから「土師(はじ)ノ里」。
改札横のスペースは整備され、古墳の説明コーナーとなっていました。ちなみに現在地は真ん中の写真の「」の位置。
19.古市古墳群の案内.jpg
20.現在地は「i」の場所.jpg
21.すなわち近鉄・土師ノ里駅.jpg

実はこの土師ノ里駅、小高い築山のような場所に造られています。1F部分に改札口があり、プラットホームがあるのは切り割りの底のようなB1F。これって、もしかすると何らかの古墳を切り割って作った駅かも、と思わせるような位置関係にあるのは間違いありません。
駅の真西には、陪冢(ばいちょう)である鍋塚古墳。上に登れます。ホントに道路の脇。この道、旧道とはいえ一応国道(170号)です。22.道路の脇の鍋塚古墳.jpg
23.鍋塚古墳案内板.jpg

向うに見ゆるはこれから行く仲姫皇后陵古墳
24.鍋塚古墳から仲姫命陵古墳を望む.jpg

さて陪冢(ばいちょう)とは何ぞや? 実は私もこの時に初めて知った言葉でした。実際、「ばいちょう」と入力しても変換できない言葉です。一度試してみてください。
調べてみると、「コトバンク」には「倍塚」とあり、
『陪冢とも書く。古墳の一種。大きな古墳のそばにあたかもそれに従うようにつくられている小さい古墳をさす。しかし,陪塚と呼ぶ場合には,規模,内容などの点で主体となる古墳となんらかの関係がなければならず,ただ位置が近いというだけでは判断できない場合もある。これらの陪塚には,死者を葬ったと思われるもののほかに,器物だけを埋納したと思われるものもある。』
とあります。
なるほど、これから巡る古墳にはたしかに陪冢がたくさんありました。この後説明していきますね。

【つづく】

※「倍塚」か「倍冢」か、読みも意味も同じなのですが、この記事では案内板や行政が発行したパンフレットに従い、「倍冢」と記すようにします。でもときどき「倍塚」と書いていることがあるかもしれませんが、その時はごめんなさい。

nice!(8)  コメント(2) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。